移り変わりの著しい時代をすこやかにしなやかに生き抜くために。バランスのとれた真のウェルネスへ誘うべく、マインドフルネスをはじめ、美容、養生、生き方など、今すぐに役立つTIPSを様々なアプローチでご紹介します。
パーマカルチャーデザイナー・四井真治さんに聞く 持続可能な暮らしの在り方
パーマカルチャーとは、パーマネント(永続性)、農業(アグリカルチャー)、文化(カルチャー)を組み合わせた造語で、持続可能な農業をもとに持続可能な文化を築いていくためのデザイン手法のこと。日本におけるパーマカルチャーデザイナーの第一人者である四井真治さんに、持続可能な暮らしの在り方についてお話を伺いました。
パーマカルチャーは
社会問題の解決策
僕がパーマカルチャーにたどり着いたのは、幼い頃の経験が大きく影響していると思います。
大学病院の職員をしていた両親のもと、北九州の新興住宅地の端っこで育ったのですが、僕が小学校に上がるタイミングで森に囲まれた自然豊かな場所に家を建ててくれたんです。それこそフォレストガーデン(持続可能な森のデザイン手法)なんて言葉は知らなかったけれど堆肥をつくって庭に果樹を植えたり、ツリーハウスや鳥小屋を作ったり、スーパーの袋がいっぱいになるほどの椎の実を拾ったり、暮らしの中で農的な体験をさせてもらいました。自然が遊びと学びの場となっていたため、自分にとって大切なものだという意識がかなり早い時期から芽生えていたと思います。小学5年生の頃には宮崎駿さんの『風の谷のナウシカ』が放映されてその世界観に衝撃を受け、中学生に上がる頃には環境問題に対する関心が高まり科学雑誌を夢中で読んでいましたね。当時、都市計画で身の回りの自然がどんどん壊されていくのを目の当たりにしていたから、なんとかしなくてはいけないと切実に思っていました。
パーマカルチャーを一言でいうのが難しいのですが、あえてシンプルにいうなら「自然の持続可能性の中でそれを活かしていかに生きていくのかを考えるためのデザイン体系」だと思います。子どもの頃にパーマカルチャー的というか、自然と繋がった暮らしに触れさせてもらったことで生活する力も養われたと思いますし、本当に両親に感謝しています。僕自身も親に倣い、子どもたちを自然の中で育てていますが、暮らしの技術や文化を継承することを家庭における教育の要としてきたせいか、現代っ子ながらも(笑)理科や数学、社会などは感覚的に習得できているのを感じます。本当は、学校教育は暮らしの中で学んだことを補完するものであるべきなんですよね。
―20年前も今も日本でパーマカルチャーデザイナーを名乗れるのは四井さんただ一人ではないかと思うのですが、どのように道を切り拓かれたたのですか?
林業を学びたいとの思いで信州大学の農学部森林科学科に進学したのですが、興味の変遷を経て大学院では緑化工学を学び、新卒では緑化事業の会社の研究職に就きました。緑化事業の研究職は学びが多く面白かったのですが、当時、公共事業の緑化予算が大幅に減らされ、ビジネスとして先行きが見えない感じになってしまったんです。それだったら、老後にやろうと思っていた有機農業のコンサルティングで独立しようと舵をかえて、大学があった場所から近い長野県高遠の黒澤という集落に築130年の古民家を借りて農業を始めました。自分が経験しないことには適切なコンサルもできないだろうと思って。農業の傍ら、友人からまさに自分がやろうと思っていた土壌分析し土づくりをコンサルティングしている会社を紹介してもらって、前職での経験が活きてとんとん拍子で土壌分析のお手伝いをすることに。偶然にも、学生の頃からの愛読書だったビル・モリソンの『パーマカルチャー』の翻訳をなさった小祝慶子さんの会社だったことから、自然とパーマカルチャー関係のイベントや講習などに関わるようになっていきました。
―ご自身を“パーマカルチャーデザイナーになった”と意識されたのは、どのようなプロジェクトだったのでしょうか?
パーマカルチャーデザインを主業務とした会社として、2001年に「ソイルデザイン」を立ち上げたのですが、“パーマカルチャーデザイナー”として大きな手応えを感じたのは2005年の愛知万博です。地球市民村というブースでオーガニックレストランを作る計画があるとお声がけいただき、最初は学生の頃から研究していたミミズコンポストと畑の土壌改良の担当で関わっていたのですが、最終的にはレストランとそこから出る生ゴミやとか廃水が循環するパーマカルチャーガーデンを併設した一つのモデルをデザインして、施工指導に至るまでを担当しました。結果的に万博もレストランも大成功。施設は会期6ヶ月で取り壊されてしまいましたが、そのDNAは引き継がれていく確信があったので全く寂しくなかったし、これからの展開にワクワクしていました。愛知万博以降、商業施設やユニークなプロジェクトにパーマカルチャーデザイナーとして仕事を依頼されることが増え、現在に至ります。最近では個人宅のお仕事も多いですね。
人間が存在することで
場を豊かにする暮らしの提案を
―仕事としてかかわるだけでなく、四井さんはパーマカルチャー的な暮らしを20年以上実践されています。続ける中で気づきはありましたか?
当時は環境技術を結びつけ持続可能な循環の仕組みをつくるのがパーマカルチャーだとシンプルに思っていたんですけど、実はそうではないと気づきました。
そう気づいたのは、2007年に長男が生まれたのを機に現在の住まいである山梨県北杜市に引っ越してからなんです。自立した持続可能な暮らしを等身大で実践したいという思いから、自分たちが作ったバイオジルフィルター(自然の仕組みを応用し排水を浄化するシステム)を使っているのですが、生活排水によって微生物が繁殖し、微生物が分解した無機物を吸収した作物を育て収穫したりしている中で、僕らの存在が、乾燥した山の中に水辺の環境をつくるきっかけとなり、微生物を増やし、場を豊かにすることができるということに気づいたんです。環境に負荷をかけないことばかりに注力すると、どうしても人間の存在を否定することになってしまいがちですが、人の存在が環境にポジティブな影響を与えられる可能性を生活の中で体感できたことは、パーマカルチャーデザイナーの仕事にも活かせていると思います。
環境問題がこれだけ取り沙汰されるようになっても実際は省資源、省エネルギー、二酸化炭素排出減対策にばかり重きが置かれていて、根本の資源やエネルギーを得る仕組みとかは変わってないんですよね。自然の仕組みのサイクルの中で得られるマテリアルやエネルギーでいかに社会を賄っていくかを基板にすることがこの社会の本当の持続可能性になると思います。
―今後、どのようにパーマカルチャーを発信していきたいですか?
オーストラリアに発祥したパーマカルチャーを本来ある日本の暮らしや文化の延長線上にアレンジして組み立て、日本なりのパーマカルチャーを作っていきたいと思っています。ビル・モリソンの『パーマカルチャー』という本には、これに沿ってデザインを進めれば持続可能になるという10の原則が書かれているのですが、原理や本質がわからないままになぞっても、文化として根付かないと思うんです。かつて江戸の町は、百万人もの人口を超える大都市でありながら、いのちの仕組みに沿った暮らしが成り立っていましたし、ガスや石油が普及する戦前まではバイオマスエネルギーでほぼ100%賄うことができた素晴らしい文化と智慧をもっていました。パーマカルチャーという言葉がなかっただけで、日本には日本の立派な持続可能な文化と歴史があるから、それをもう一度掘り起こして、現代の人が魅力的に思えるような未来の暮らしを組み立てていきたいですね。
子どもの頃「本当の豊かさとはなんだろう」とよく考えていたのを思い出します。単純に学校の勉強が嫌いだったからなのですが(笑)、子どもなりに勉強する理由を探していたんですよね。それでたどり着いた答えが、勉強とは豊かになるための手段ということだったんです。幼い頃の自分の問いかけが間違っていなかったことを、パーマカルチャーは教えてくれていますね。
―後編では、都市生活者が取り入れられる、パーマカルチャー的な暮らしのアイデアについてお伺いします。
四井真治
1971年福岡県生まれ、信州大学農学部森林学科卒業後、緑化会社と有機肥料会社の勤務を経て独立、ソイルデザインを設立。2007年に山梨県北杜市に移住。生ゴミや排泄物を堆肥に利用、生活排水を庭のビオトープに活用するなど、無駄のない自給性の高い暮らしを実践しながら、全国各地で講師活動を続ける。パーマカルチャーセンタージャパン講師。
Instagram @yotsuishinji_permaculture
http://soildesign.jp/
Text_ Yuko Homma
Editorial Direction_ Little Lights