
ものづくりの背景に敬意を払いクリエーションを讃える。サステナブルをテーマに、アーティストや起業家をはじめ想いを共有する挑戦者たちを紹介。彼らのヴィジョンから自分らしいスタイルのヒントを見つけ出します。
言葉にできない領域を掬い上げ 許される場をつくる。 中村佑子が進むドキュメントという手法
映画作品『はじまりの記憶 杉本博司』『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』など、映画監督・映像作家として、繊細な表現が高く評価されてきた中村佑子さんが、初めての著書『マザリング 現代の母なる場所』(集英社)を刊行。身近な母への取材をベースにしながらも、自身の妊娠出産や育児、母親の介護といった実体験と哲学的考察が凝縮した唯一無二のドキュメント作品となっている。

映像の感覚を手放さずに書く。
ー映像表現、執筆と多岐にわたり活動されていますが、『マザリング』はご自身の妊娠・出産という経験が色濃く影響している作品ではないかと思います。執筆のきっかけと、特に注意されたことがあれば教えてください。
前作『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』を映画館で観てくださった文芸誌「すばる」の編集者から、「胸の内に“書くこと”をたくさん秘めている方だと思うので」と執筆オファーのお手紙をいただいたのがきっかけでした。おっしゃる通り、ちょうど私自身が妊娠、出産を経験したタイミングで、身近な母の声を聞いてみたいという初期衝動があり、インタビューを主体とした連載という形になったんです。東京に生まれ育ち、都会の生活に適応しているつもりでいたのに、駅のホームで赤子に母乳を与えている自分は、文明人であることを剥奪され旧石器時代の女性たちと何ら変わらないプリミティブな状態に突然放り出される。これまで参加していたはずの社会を遠い目で眺めだしたとき、自分がどこにいるのかわからなくなり、本当に失語症のように言葉を失ってしまったんです。だからこそ、身近な母たちに会って、記録されていない言葉をまとめたかった。注意したのは彼女たちの言葉を聞きながら、自分は彼女たちの鏡のようになって、反射板として“無”になることを心がけながらも、私自身がそこでどれだけ変化していくのかに敏感になることでした。対話の中で偶発的に生まれてくるものも大切しながら、そのなかで自分を解放させていき、感情や思考の変化の軌跡をもドキュメントしていく。映像を編集する際に、自分はこの映像がどっちに進んでいきたいのかを読み取る係なんだと、自意識が持ち上がらないよう意識するようにしているのですが、それは文章でも同じことでした。そしてこの本は実際、彼女たちの話を聞き書くことで、私自身が言葉を取り戻していくドキュメントにもなったと思っています。
ー映像がまざまざと浮かんでくる文体も、ドキュメンタリー作家ならではと思いました。音や街の匂いも感じられるほどに五感を刺激され、映画を見終わったかのような読後感が味わえます。
話している彼女たちの周囲で風が揺れたり、迷って目を伏せた仕草、思考が動いた瞬間なども含めて文章に閉じ込めることで、語り手が目の前で今まさに話しているかのような場面を書きとることを心がけました。たぶんそれは「聞き書き」と言われる手法で、森崎和江さんや藤本和子さんなど、これまでも女性のすばらしい書き手が多くいらっしゃいます。皆さん、聞いた言葉が自分の身体を通過していく、その音までも書き取っていく身体的言語をお持ちです。そういう方たちに自分も連なりたいという思いもありました。取材時に録音はしますが、それはあくまで最終確認用。お話を伺ってから2、3週間身体のなかに言葉を沈ませて、ゆっくりと浮かび上がってきた言葉を一つ一つ掬い上げるように書き進めました。心の再生動画に映り込んだ空気感や心情を描いていると、いかにお話を聞いた瞬間にはわからなかったことが多く、記憶のなかで時間をかけてこそわかることが多いかということに気づきます。映像でカメラ越しに被写体を撮っているときも同じような感覚があります。被写体の“いま現在”を四角いフレームの中に一度閉じ込めて、それをあとから編集するわけですが、そうすると“現在”が映像のタイムラインのなかで変化し、違う意味を立ち現わしていく。この映像感覚を、書くときも手放したくないと思っているので、「聞き書き」という手法がもつ身体的言語がしっくりきたのだと思います。「聞き書き」は、これからも鍛錬したい分野の一つです。
ーご自身の中で『マザリング』を執筆され、意識化された無意識はありますか?
赤ちゃんと二人で過ごしていると、自分と他人との境界線が曖昧になり、生と死の両方がすぐそばにあるというような不思議な感覚になります。そのことについて考察していく過程で、人と人とが自己の境界線を脱して交わったときに感じることに、かなり小さい頃から興味があったことに気づきました。母の子宮のなかはどんな状態だったか、そこで自分は何を感じていたのかということを、思えば子どもの頃からよく考えていました。はじめて性交した頃も、母の胎内のことを思って、悲しいような何だか懐かしいような気持ちになり、ただただ涙が出たことを思い出したり……。無意識ということでいうと、妊娠出産時の経験を言葉にすること自体が、無意識を言語化する、つまり無意識を意識化する作業だったと今では思います。言葉になっていない、できないような経験を“言葉”で捉えようとすることは、ぼんやりとした行燈の光で照らしながら、思考の暗闇を彷徨うようでした。妊娠出産時に限らず、人のなかにはこうして照らされることのない無意識の暗闇が膨大にあることも、絶えず感じていました。

自分の内にある弱さを見つめることから。
ー「マザリング」とは、“性別を超え、ケアが必要な人に手を差し伸べること”。副題に「現代の母なる場所」とついているように、身近な母たちの言葉を丁寧に紡ぎながらも、いわゆる母性の話ではなく、“社会にとっての母”を考察する文脈に接続してきます。
自己犠牲を伴う包容力を表す“母性”という言葉が、女性たちを苦しめてきたことは私自身実感していますし、母という言葉を用いることで遠ざけてしまう人がいるのではと、書籍化のお話をいただいてからずっと“母”に代わる言葉を探していました。そんなときに出会ったのが、“性別を超え、ケアが必要な人に手を差し伸べること”を意味する「マザリング」という言葉でした。欧米のフェミニズムの文脈では資本主義へのアンチテーゼにもなっているというこの言葉に出会ったことで、戦略的に“母”という言葉を用いる覚悟が決まりました。手垢にまみれた“母”や“母性”を解体して転生させる可能性を感じましたし、二年間の取材の中で考えてきた“社会にとっての母とは何か?”という文脈に接続できると思ったんです。ある人から「性別を問わず、社会で傷ついた経験のある人なら何かしら響くものがある作品」という感想をいただいて、本当に書いてよかったと思いました。
ー今こそまさに「マザリング」が必要とされていると思うのですが、どのようにすれば社会に広く深く浸透していくでしょうか。
やはりまずは自分の弱さから見つめることではないかと思います。弱者も強者も、“外”にいるわけでなくて自分の内に存在している。そのことに自覚的になることが大切だと思いました。長引くコロナ禍でより顕著になりましたが、都市や、社会の中枢部で見かけるのは社会の構成員としてしっかりやっていける労働者か消費者ばかり。街に社会に国に、弱った人を受け入れる場所が減ってきているような気がします。私も母の介護を経験したとき、病院から都心の会社へ向かおうとするもののどうしても足が向かず、電車を降りてしまったことが度々ありましたが、弱った人の側に寄り添っていると、見えてくる風景が全く異なり、社会の構成員として働いている世界との乖離が激しすぎるんです。もちろん病気になれば病院という存在がありますが、健康にも病にもグラデーションがあって、病名がつかない不調を抱えている人もたくさんいますよね。生理休暇一つをとっても、救われた人がいる反面、生理のときは会社にこなくていいというメッセージは、不調を抱えている人を許容できる地盤が社会にないという証のようなもの。多少具合が悪くても、さまざまな人の状態を許し合いながら、職場というものが存在するのが本来の姿だと思います。政治を見ていても、社会の構成員としてスピードの速く過酷な輪の中で頑張れる人ばかりを対象とし、そこで働いている彼らには弱っている人たちの存在すら見えなくなる。現代社会が人の傷つきやすさを疎外し、健康こそ正義で、弱っている人を排除しようとしてきたことが、今多くの方が感じているであろう生きづらさの一因になっているのではないかと思います。
ー『マザリング』執筆後には、AR映画『サスペンデッド』 で病の親と暮らす子供には世界はどう見えているのかを表現されています。
『マザリング』で自分の母について正面から向き合えたことが一つのきっかけとなり、 長いあいだ精神的な不調を抱えていた母のことを撮りたいという気持ちがわきました。病の親と暮らす子どもたちの実態が表に出ることはほぼなく、言葉にされてこなかった領域で、“ヤングケアラー“としていま注目され始めている社会問題でもあります。ドイツやオランダだと患者が精神科を受診すると、その家族は大丈夫か、ケアを担えるか、患者の家族の方にも調査が行われるそうです。家族というものが、この社会のなかで壊れていて当然であることを前提に、ケアの方針を固めるのだというのです。しかし、日本は逆行していて、いまだにケアは家族が担うものとされ、介護保険制度や社会制度がすべて家族主義になっている。患者が精神科を受診しても、その背後にある家族はブラックボックスなままです。いまの核家族化した社会で、家庭内にケアを担える人が存在する方が奇跡的ですよね。社会制度として、幻想で家族を見ることが、弱った人をさらに追い込んでいるように思います。
ー中村さんの作品は、一つひとつの作品がテーマを持ちながらも、他の作品と相乗効果を生み出していて、観る者に時間差で何度も問いかけてくるような感じがします。『マザリング』『サスペンデッド』を経て、次の展開もとても楽しみです。
ありがとうございます。作品がそれぞれの人の具体的な問題を解決するわけではないけれど、本や映画というものは、強さと弱さ、あるいは労働環境と生活という両極しかないような社会のなかで、曖昧に人をつなげる“中間領域”なのだと感じます。一冊の本や、映画を自分がどう感じたか、感覚や言葉を交換して共有できる場、許される場。そうしたあらゆるグラデーションの狭間にある中間領域を作っていきたいと思っています。ゆくゆくは弱った人を受け入れられる具体的な場所を作ってお節介おばちゃんみたいな役もやってみたいと思いますが(笑)、今は映像や文章を通した場づくりに挑戦したい。人と人が寄り掛かりあうこと、依存することは生きていくために必要なことなのですから。
中村佑子
1977年、東京生まれ。慶應義塾大学文学部哲学科卒。哲学の専門出版社で編集に携わり、映像の世界へ転身。その後、テレビマンユニオンへ。映画作品に『はじまりの記憶 杉本博司』、『あえかなる部屋 内藤礼と、光たち』(HOTDOCS正式招待作品)、テレビ演出作にWOWOW「はじまりの記憶 現代美術作家 杉本博司」(国際エミー賞アート部門ファイナルノミニー)、NHK「幻の東京計画 首都にあり得た3つの夢」(2015年ギャラクシー奨励賞受賞)、NHK「建築は知っている ランドマークから見た戦後70年」等がある。文芸誌『すばる』にて2年間連載していた論考「私たちはここにいる 現代の母なる場所」を、『マザリング 現代の母なる場所』(集英社)として刊行。最新作はシアターコモンズ'21で発表されたAR映画『サスペンデッド』。
Twitter Yuka Nakamura