ものづくりの背景に敬意を払いクリエーションを讃える。サステナブルをテーマに、アーティストや起業家をはじめ想いを共有する挑戦者たちを紹介。彼らのヴィジョンから自分らしいスタイルのヒントを見つけ出します。
目に見えるものの先を問う、青木柊野によるフォトメイキングとは
私たちの社会の中で自分がどこに属するのかを見極めパフォーマンスをする。会社員でも個人経営者でもアーティストでもそれぞれが自分の役割を考え、身近な窮屈さをきっかけに暮らしや社会のありかたを模索し、改善するべく生きている。EQUALAND JOURNALで人々のポートレートを写した青木柊野は、社会の違和感に敏感に向き合い表現を模索しながら歩みを進めてきた。AIやアナログ技術を最大限に活かし写真という手法の枠を捉えながら、その枠組を乗り越える大胆な姿勢で探求を続ける彼に迫った。
ーどのような街で生まれ、幼少期が写真家としての道にどのように影響していると思いますか?
秋田で生まれて京都や大阪を転々としたんですが、秋田で13歳まで過ごしてその後神奈川に実家ごと引っ越したので、青春時代はほぼ関東圏で育ちました。13・14歳くらいから高校を卒業するまで父が単身赴任で転勤を多くしていて家には姉と母しかいなかったんです。僕は自由で、夜に帰らなかったり学校をエスケープして自転車やバイクで遠くの海や自然に行ったり映画を見たりしていました。学校や社会というものからなんとなく自分が離れて行きだしたのがその頃、中学・高校生ぐらいなのかなって最近思えるようになりました。
ー離れることでなにを捉えていたのでしょう?
どちらかというと離れることによる安心だとおもいます。高校生ぐらいから自分と他者ということを意識するようになって、自分が物や人に対して冷めているというか、斜めに人を見ていたんです。そういうこともあって、なんとなく社会からはなれた自然や海を求めて足を向けていたのかもしれない。高校から大学にいくとか、形式的に行きていかなきゃいけないことに初めて直面するというか、中学や高校受験よりもより一層、生きるっていうことがもろに具体化されてきて、それからの逃げ、もあったのかもしれない。
ーそして写真家という生き方を選択した。
自分がスーツを着て毎日同じ時間の電車に行って仕事に行くのってすごいストレスだなって思い始めて。自分は映画も写真も好きでそういう生き方を知っていたので、高1くらいから写真を撮り始めて、このまま写真家になれればいいな、程度に思ってたんですよね。 そこから、どうやったらなれるのか、今どういう作家がいて、どういう生き方をしていったら一番近づけるのかを具体的に考えて、東京工芸大学の進学科を選択しました。最初から4年も続かないのはわかっていたけれど技術的なものだけ学ぼうと。カラー写真部という、暗室が自由に使える部活に入部すると膨大な量の卒業生の小浪次郎さんのプリントがあったりしていて。ココに4年間いるより外のほうが学べることのほうが多いかなと思って、半年ぐらいで辞めましたね。
ー制作のコミュニティはどのように広げましたか?
高校3年生のときに星加陸というグラフィックやってる子に出会って一緒にZineを作りました。彼は武蔵野美術大学だったんで、そのまわりのコミュニティの人たちとはわりと仲良くなりましたね。写真をやってる人は少なかったけれど、概念から組み立ててものを作ってる18・19歳の人たちが多くて、クオリティが高くて良いものを作ってるなという感じはしました。だから当時はそっちの影響のほうがあるかもしれません。
ー星加さんとの制作はどのように構築していったんですか?
最初の作品である「Shell」は、お互い18・19歳で、とりあえず印刷物を作ろうという感じだったんです。その頃から僕はフィルムに対して物質的にダメージを与えたり、手焼きする過程で直接ネガに傷つけたりアグレッシブな表現をしていたので、そのうえに、さらにグラフィック的に直接紙にダメージを加えたり、濡らしたりしようと。お互い若かったっていうのもあって、キレイなものを作ろうというよりは物質的にダメージを与えるっていうのをなんとなく最初に決めて、そこからは今自分たちがもっているカッコよさを出そうぐらいの感じでした。
ー写真に直接手を加えるということが青木さんのアナログからデジタルに変化していく表現手法の原点とも言えるんでしょうか。
最初は写真とは何か、みたいなことを考えていたんですが、AIを使い始めたりバグを使って作品(『luminous body’s』)を使ったこともあって、デジタルの手法で新しいものを作るってなったときに、写真って僕の中では暗室で焼いたものが写真であって、英語で光を描くっていうんですけれど、そのイメージが強かったんですが、トーマス・ルフが「フォトメイキング」を提唱していて、それにしっくりきたんですよね。自分はデジタルもやるしアナログの手法も使うんで、写真はあくまでツールでしかなくて、カメラやテクノロジーを使って物質を作っている感覚がいちばん言い得て妙だなって。
というのも、本来写真家ってバックボーンとかストーリーがあって作品を作ることが多いと思うんですけれど、僕の場合バックボーンみたいなものがなくて、純粋に写真というものを自分なりに考察していきたいな、と。
ー展示「autonomy」ではAIのプログラム「DCGUN」を使って写真の情報を計算式によって変換させるという、新しい表現を発表していました。
今まで自分が撮ってきたものをDCGUNにいれて、計算させて、戦わせて、そこからビジュアルが生まれるという手法です。すべてぼくが経験してきたことが写っているんですけれど、ピンがちょっとずれたりRGBがずれたりして、僕が実際記録してものとは物質的に別なものになってるんで、変な意味で僕が撮ったものが一個もないっていう状況だったんです。展示空間では、そこに対して鑑賞者があまりそれに対してつっこまないというか、みんなが見てるものがそこじゃなかった。今の自分の鑑賞者は、俺がなにを思ってこういうものを作って、その先や裏になにがあるかまでは考えないんだなと。 自分はこの『autonomy』という展示はアートフォトだと思ってるんですけれど、そのアートフォトになるのかその一歩前にとどまるかの境界線ってクリティカリティが存在するかどうかだと思っていて。批評する人がいて初めてそこに捉え方が生まれるから。そういう環境づくりが大切だし、そういうことも見る側も作る側ももう少し考えて作っていかなきゃいけない時代だなって思いました。
ーそもそもDCGUNをやろうと思ったきっかけは?
最初、20~21歳の時にプログラマーに発注したんです。その頃、仕事も結構来るようになっていて商業的な写真を撮ることが増えて、自分の中で商業に対するストレスがあったり作品を作るっていうマインドになかなかなれず、自分が撮ったものから作品を作れないかなと思っているときに、DG GUNをたまたまみつけたんです。同時に、自分がアナログからデジタルのテクノロジーもできるっていう“幅”を若いうちにつくりたかった。そういう写真家ってあまりいないかなって思って。そういう意味では(師事した)山谷(佑介)さんは、アナログから入ってテクノロジーにはいっていっていて、その影響もあるしリスペクトをしている部分もあるので、そこも意識した上でのDCGUNを使うっていう選択肢でした。
ーやってみた感想はいかがでしたか?
結構衝撃的でしたね。ビジュアル的には違うんですけれど自分が今まで撮ってきたものがなんとなくそこに写っている気はすごくしました。DCGUN自体もHTMLなのでコードで形成されているんですよ。それが、普段携帯で見る情報にも近しく感じたというか。例えば高校のときにバックパックで東南アジアに行った時の写真を入れたコードのものが、DCGUNを通すと結果的にぼやぼやっとした絵になるんですが、このぼやぼや感が自分の記憶に一番近い。確かに行っていろんなものを撮ったけれど、はっきりと覚えてない“何かの記憶”がこのビジュアルに一番近くて無償にしっくり来る。そういう意味で私写真としても成立するしおもしろいんですよね。
ーアートは社会の潮目を捉えるという役割も持ちつつ、造り手側の作為を感じると一気に興ざめしてしまう側面もある。AUTONOMYでは自動的に生成されるイメージによって写真は新たな生物のように変化して行きます。これは私達の日常生活で起こっているAIの役割への警鐘を意味するのでしょうか?
僕もあんまり悟れたくないというか、DCGUNの作品も背景には、AIの警鐘とかも最初は通っているんですが、自分のステートメントとして出すときには「今まで自分が撮ってきたものです」というぐらいにとどめておきたかった。あくまでも、写真の善し悪しで見てほしかったんです。僕が写真をやるうえで、写真的というのが一番根底にある強い部分で。コンセプチュアルな作品ってストーリーや全体で見せるけれど、僕は一枚でも成立するような写真が束になっても強いって思っていて。そこは多分僕は80年代の日本の写真家、深瀬昌久、植田正治、森山大道とかに影響を受けてきていて、1枚の写真っていうのはすごく信じてるんで、それが写真を発表する上で意識してることかもしれないですね。
ー票を得るためにもカッコいいっていうのは重要なことですよね。そういう役割を感じながらファッション写真にも寄り添っている感じですか?
そうですね。日本はまだ特にファッション写真と現代写真が乖離されている状態。僕の世代とかこの歳でそういう距離みたいなものをもう少し近づけられるんじゃないかなって気がします。
ー今回、ポートレートをいくつか撮影していただきました。人物を撮る上で青木さんが大切にしていることはなんですか?
仕事の撮影のポートレートではあまりなにも思わないというか。でも、普段撮っているスナップでは、その人と自分の関係性をちゃんと写したいと思っているので、その“撮りたい距離感”が仕事のポートレートでもモロに出ちゃいますね。
ーAIを使った表現に積極的な青木さんから見てクリプトアートについてどう思いますか?
クリプトアートは、複製ができてWEB上で販売ができるアートなんですが、一個の作品に対してエディションの数を選べるし複製もできる。元々の絵はエディション1として3億円の価値がつくほどですが、複製ができてしまう。そういった新しい概念というか、またひとつデジタルアートの中に一個の文脈ができたなっていう印象です。複製という意味では、以前、僕もバグをテーマにした展示『luminous body's』のときに、自分が撮った写真から新しいイメージを作るっていうことをしてみたんです。撮った写真を壊れかけのパソコンに入れて、データに対して負荷をかけると、液晶の上で大量に写真自体が光ったり、変なノイズが生まれたりする。それをスクリーンショットして展示した作品があるんです。それもある種の複製というか。もとの写真はいっしょだけどそこから違うものが生まれるみたいなことなんですが、そういったコピーみたいなものはずっと自分のなかで消化できてない問題なんですよね。そういう意味でクリプトアートが評価されることで、いろんな可能性があると思うし、デジタルアートというマーケットがひとつできたというだけでより一層アナログで作る意味とかデジタルで作る意味とか、混ぜて作る意味が問いやすくなってきたのかなって。いろんな可能性を割と与えてくれた感じはしています。
ーパンデミック以降、生き方や価値の見直しが問われています。また、環境破壊をはじめさまざまな社会問題を是正する力が個人の発言力とともに上がっています。アートには様々な役割がありますが、青木さんは、アートのどんな力を信じていますか?
個人的には信じているんですけれど、大衆ってなったときに、ちょっと麻痺する部分も感じます。でもグレタ(・トゥーンベリ)さんのように人やメディアの力が集結すれば十分な力になると思います。単体で発表するだけでは足りないかもだけど、火種としてアートの可能性は大いにあると思います。表現の上では、そういう見せ方をどんどんしていくことによって巻き込めると思うし、そういうことをしていきたいなって思いますね。今の若い子たちって割とそういうものに対して感度が高くて、環境問題とか社会問題とかを結構みんな意識しています。ただ日本人は特に表面的に訴えてる人が多い気がします。実際に行動できる人が少ないので、そこに自分が写真やアートを通して、パフォーマーとしての役割を出来るといいなと思います。
青木柊野
1998年生まれ。東京工芸大学写真学科中退後、ファッションブランドなどのコミッションワークの 傍ら、2019年2月にテラススクエア、class,で行われた展示『autonomy』ではAIで自動に生成された 画像を使った表現を追求し話題を呼んだ。
https://www.aokisyuya.com
Photographer_ Shuya Aoki
interview_ Yuka Sone Sato
Editorial Direction_ Little Lights