物を買う、発言する。そんな私たちの小さなアクションが社会を動かしていきます。まずは、身の回りや世界にはびこる社会問題に目を向け意識を変えることから。様々な執筆家を迎え、それぞれの気づきから考えを促します。
「自分が応援したい会社をどう見つけていくか」佐久間裕美子
この社会が、地球が置かれている状況を知れば知るほど、物を買う、という行為の重みが大きくなる。
できるだけゴミを出したり、無駄を作ったり、自然に害を及ぼしたりせずに生きたいと思っても、これがなかなかに難しい。その商品がどんな素材で、どこの工場で、どんな人たちによって作られているのか、どんな包装材に入ってくるのかーー過去数年間、気候変動による脅威がどんどん大きくなる中、何かを購買するときに、素材の環境コスト、工程、自分と生産地の距離について必ず考えるようになった。
コロナ禍になる前までは、中小の商店が大切にされている地域に住み、大きな企業にお金を使わないことを大切にしてきたが、コロナウィルスがやってきて、人里離れた山の中で生活するようになると、大手の小売業者に頼らざるをえなくなって、考えるべきポイントが増えた。私たちの生活ができるかぎり「正常に」進んでいくことは、パンデミックのさなかに仕事に出てくれるエッセンシャル・ワーカーたちのおかげだったけれど、彼らを保護するための企業の方針は、ウィルス拡散防止の措置から緊急昇給、病欠の許可まで、企業によってずいぶんと違っていた。従業員を大切するスーパーで買い物をすることが、自分の安全を確保することと直結していた。
昨年夏にブラック・ライブス・マター運動が再燃して、構造上のレイシズムの根深さが議論に上がってからは、社員や役員のダイバーシティを積極的に応援する企業を探すようになった。オーストラリアのシンクタンクが、中国におけるウイグル人の強制労働の実態をレポートしてからは、中国製を避けるだけでは足りないということに気がついて、ウイグル人労働を使う工場やサプライヤーと取引する企業のリストを頭に入れた。
自分は何にお金を払っているのだろう? 払っているのは、物の対価だけではない。その企業がその商品を製造し、店に届くまでの材料費、工賃、人件費、流通、すべてにかかるコストが自分が払う価格には入っている。そしてその対価を支払うことは、その企業の商行為をサポートすることでもある。
こういうことを考え始めると、何かが必要になったときに、何を、どこの会社から買うべきかリサーチに使う時間がどんどん長くなる。自分が何かを買う行為が、誰かの悲しみや苦しみを作り出すシステムの一部になるのは嫌だ、そう思っても、これはなかなか難しい。スマホや電化製品にはどこか必ず、中国の強制労働につながっている。調べれば調べるほど、自分もまた、人権の蹂躙にどこかでつながっているのだと知るし、無力感も増える。だからこそ、調べることに時間を使い、その内容をシェアする。
ひとつ、深く考えるようになったのは、「必要」ということはどういうことか、ということだ。「必要」だと思っても、よくよく考えてみると、必要ではない、ということがよくある。何かが壊れなければ、または修復できれば、別の物で代用できれば、結局、買わなくて良い、ということにもなりうる。環境を破壊しながら作られたものを、なるべく長く使うための工夫は、何かを買うところから始まっている。
決して、こういうことをすべて完璧に実践できているわけではない。日々あれこれ考えながら、初歩的な間違いを犯すこともある。買い物に行くのにバッグを忘れたり、リユーザブルのカップを忘れたり。忘れ物をして所有してているはずの物を買う羽目になったり。そういうことがあるたびに、自分という存在の罪の重さに頭を抱える。
こういうことをダラダラと書くと、面倒くさいと思う人もいるかもしれない。ものをひとつ買うのにそこまで考えないといけないのか、と。けれどひとつ誤解のないように言っておきたいのは、こうした努力を日々することで、自分の物に対する愛情がどんどん深まった、ということだ。
元来、物は好きなほうだ。旅先で見つけてきたガラクタに囲まれて生きているし、持っている衣類の量も、少ないほうとは言えないだろう。物を処分することだって大の苦手だ。
いっとき、気候変動への絶望が深まりすぎて、ヴィンテージ以外の衣類を買わなかったことがある。古着が好きなのは、流行に惑わされなくて良いということもあるけれど、自分より長くこの世に存在する衣類に、自分が腕を通せるという喜びがある。
けれど、一度、新しいものを買うのをやめてわかったのは、自分の生活にはやっぱり新しいクリエイションも必要だということだ。こんな時代にあっても作られる価値のある物があるということだ。着る人、使う人に喜びを与える物を作っている人たちがいる。自分は、そういう物を厳選して大切に使う人間になりたい、と思う。
服を買うときには、いつか手放すことは考えない。ずっと着れる物を選びたいからだ。年を重ねて似合わなくなったとき、次の持ち主が見つけられる程度に価値のある物を選びたい。古着にいたっては、自分よりも長く生きてきたものの命を長引かせたい、と管理人のような気持ちすら持っている。究極的には、自分が死んでも、自分の持ち物はそこに残ることになる。自分の物を処分する人が、それをゴミだと思うのか、誰かが価値を見出して次の命をを与えてくれるのか。後世になるべくゴミを残さない存在になりたい。
佐久間裕美子/文筆家
1996年に渡米、1998年からニューヨーク在住。ファッションやライフスタイルの媒体でライターとして活躍しながら、国際的な視点をもって社会問題を切り取り姿勢に幅広い支持を受けている。近著「Weの市民革命」(朝日新聞社)ほか、「ピンヒールははかない」(幻冬舎)、「ヒップな生活革命」(朝日出版社)。若林恵氏とのPodcast「こんにちは未来」、eri氏との「もしもし世界」も配信中。
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Editorial Direction_ Little Lights